「フィリピンに行ってくれないか?」 上司の一言が変えた私の人生 2014年3月26日 意識が高くない「フィリピン生活」 ツイート フィリピンはマニラ在住、40代後半の独身男性、のりじぃです。これからフィリピンの就職や生活事情について、しばらく連載したいと思います。 私は大学を卒業後、大手国産コンピューターメーカーに入社し、システムエンジニアとして配属されました。実際には、お客さまにオペレーティングシステムの使い方を教えたり、新入社員を教育したりする講師業務に従事することが多かったです。 入社して10年たったある日、上司から「フィリピンに行ってくれないか?」と打診されました。海外旅行には何度か行ったことはあったものの、アジアの国は未経験。しかもフィリピンと聞いたときには、どんな国なのかもさっぱりイメージが浮かんでこない状態でした。 ただ、日々の仕事がマンネリ化していたこともあって、1日考えた後、上司に「はい、行きます」と答えてしまった――。これが私の人生の、大きな転機となりました。 最初は抵抗感があったけど、いつの間にか… 初めてのマニラは、驚きの連続でした。フィリピン人は、日本人のように時間を守りません。公共心も薄く、自分さえよければいいという考えが当然のようにまかり通っているように見えました。 道路の渋滞がひどいので様子を見に行くと、交差点のど真ん中に平気でクルマを止めている人がいて驚いたことも。当時の警察は、日本人のような豊かな外国人から、どうやってカネを巻きあげようかと考えているように思えてなりませんでした。 一方で、フィリピン人特有の人のよさ、ノリのよさには、私が小さい頃の日本を思い出させるものがありました。せかせかと早足で歩く日本とは異なり、フィリピンの人はゆっくり歩いているせいでしょうか、時間がゆっくりと過ぎていく感じがします。 また、フィリピンの人々は人なつっこく、いつも笑顔で話しかけてくれます。日本人がずいぶん前に失ったモノが、ここにはあるような気がしました。 そんなこんなで、当初は2年のはずだったマニラ赴任でしたが、政府関連の仕事に携わる間に、4年の月日が流れていました。いつの間にかフィリピンにどっぷり浸かっていた私は、日本に帰国したものの退屈で仕方ありません。5年後に再び上司から「フィリピン行き」を打診されたときには、ふたつ返事で承諾していました。 駐在員から現地社員、そしてリストラ! こうして計6年をフィリピンで過ごしたわけですが、この間は日本メーカーの駐在員という身分だったので、大変恵まれた生活を送りました。高級コンドミニアムに住み、運転手やメイドさんを雇ってもまだまだ貯金ができる状況です。 2度目の赴任から帰国して、職場に自分の居場所がないことを確認した私は、長年籍を置いたメーカーを退職し、3度目のフィリピンに向かいました。 なんとか外資系のコンピューターメーカーに就職したものの、立場はフィリピンのローカル企業の社員扱い。給与レベルは駐在員とは雲泥の差で、小さなコンドミニアムに住み、「ジプニー」と呼ばれる汚くて危ない乗合バスを乗り継いでの通勤でした。 その職場も、3年たったある日、会社から「すまないが、会社都合で今の仕事がなくなるので辞めてください」との通知でクビに。人件費がさらに安い別のアジアの国に拠点をすべて移すというのですから、どうしようもありません。 今はフィリピンに残りながら、フリーランサーとして翻訳をしたり、現地事情の記事を執筆したりする毎日を送っています。いまさら日本には戻れない身になってしまったのですが、さて、これからどうなりますことやら…。 あわせてよみたい:貧困BPの「外こもりのすすめ」シリーズ 【プロフィール】のりじぃマニラ在住、40代後半の独身男性。大学卒業後、大手有名電機メーカーに就職し、入社11年目にフィリピン駐在を命じられる。在籍中に計6年のフィリピン生活を経て退職し、フィリピンの現地メーカーに3年勤務。会社のマレーシア移転に伴いリストラ対象となり、現在は気ままなフリーランス生活中。
「フィリピンに行ってくれないか?」 上司の一言が変えた私の人生
フィリピンはマニラ在住、40代後半の独身男性、のりじぃです。これからフィリピンの就職や生活事情について、しばらく連載したいと思います。
私は大学を卒業後、大手国産コンピューターメーカーに入社し、システムエンジニアとして配属されました。実際には、お客さまにオペレーティングシステムの使い方を教えたり、新入社員を教育したりする講師業務に従事することが多かったです。
入社して10年たったある日、上司から「フィリピンに行ってくれないか?」と打診されました。海外旅行には何度か行ったことはあったものの、アジアの国は未経験。しかもフィリピンと聞いたときには、どんな国なのかもさっぱりイメージが浮かんでこない状態でした。
ただ、日々の仕事がマンネリ化していたこともあって、1日考えた後、上司に「はい、行きます」と答えてしまった――。これが私の人生の、大きな転機となりました。
最初は抵抗感があったけど、いつの間にか…
初めてのマニラは、驚きの連続でした。フィリピン人は、日本人のように時間を守りません。公共心も薄く、自分さえよければいいという考えが当然のようにまかり通っているように見えました。
道路の渋滞がひどいので様子を見に行くと、交差点のど真ん中に平気でクルマを止めている人がいて驚いたことも。当時の警察は、日本人のような豊かな外国人から、どうやってカネを巻きあげようかと考えているように思えてなりませんでした。
一方で、フィリピン人特有の人のよさ、ノリのよさには、私が小さい頃の日本を思い出させるものがありました。せかせかと早足で歩く日本とは異なり、フィリピンの人はゆっくり歩いているせいでしょうか、時間がゆっくりと過ぎていく感じがします。
また、フィリピンの人々は人なつっこく、いつも笑顔で話しかけてくれます。日本人がずいぶん前に失ったモノが、ここにはあるような気がしました。
そんなこんなで、当初は2年のはずだったマニラ赴任でしたが、政府関連の仕事に携わる間に、4年の月日が流れていました。いつの間にかフィリピンにどっぷり浸かっていた私は、日本に帰国したものの退屈で仕方ありません。5年後に再び上司から「フィリピン行き」を打診されたときには、ふたつ返事で承諾していました。
駐在員から現地社員、そしてリストラ!
こうして計6年をフィリピンで過ごしたわけですが、この間は日本メーカーの駐在員という身分だったので、大変恵まれた生活を送りました。高級コンドミニアムに住み、運転手やメイドさんを雇ってもまだまだ貯金ができる状況です。
2度目の赴任から帰国して、職場に自分の居場所がないことを確認した私は、長年籍を置いたメーカーを退職し、3度目のフィリピンに向かいました。
なんとか外資系のコンピューターメーカーに就職したものの、立場はフィリピンのローカル企業の社員扱い。給与レベルは駐在員とは雲泥の差で、小さなコンドミニアムに住み、「ジプニー」と呼ばれる汚くて危ない乗合バスを乗り継いでの通勤でした。
その職場も、3年たったある日、会社から「すまないが、会社都合で今の仕事がなくなるので辞めてください」との通知でクビに。人件費がさらに安い別のアジアの国に拠点をすべて移すというのですから、どうしようもありません。
今はフィリピンに残りながら、フリーランサーとして翻訳をしたり、現地事情の記事を執筆したりする毎日を送っています。いまさら日本には戻れない身になってしまったのですが、さて、これからどうなりますことやら…。
あわせてよみたい:貧困BPの「外こもりのすすめ」シリーズ
【プロフィール】のりじぃ
マニラ在住、40代後半の独身男性。大学卒業後、大手有名電機メーカーに就職し、入社11年目にフィリピン駐在を命じられる。在籍中に計6年のフィリピン生活を経て退職し、フィリピンの現地メーカーに3年勤務。会社のマレーシア移転に伴いリストラ対象となり、現在は気ままなフリーランス生活中。