サラリーマンから外こもりへ 抑えきれなかった「衝動」の理由【外こもりのすすめ(3)】 2013年10月12日 外こもりのすすめ ツイート 外こもりをしながら、「セカシュー」を目指した貧BPさん。しかし、日系企業の「しがらみ」や、現地企業の「ブラックさ」に辟易し、海外就職はうまくいかなかった。 だが、そんな貧BPさんにも、日本での「サラリーマン時代」があった。いったいどのような仕事をしていたのだろうか。 (過去の「外こもりのすすめ」はこちら) 大卒後、バックパッカーとして東南アジアを放浪した貧BPさん。新卒での就活は経験していない。バックパッカーを始めた当初は、アルバイトを転々として生計を立てていた。 仕事を転々とし、お金が貯まったら海外に飛び出す。経験した仕事は、とても全て把握しきれないという。 「きちんと覚えているのは、病院事務、自動車工場の期間工、コールセンター、雑貨屋などです。そしてソフトウェア開発会社での事務職が、日本で最後の仕事になりました」 一番長く続いたのが、そのソフトウェア開発会社で5年間だ。正社員や契約社員になっても、3か月で辞めた仕事もあった。どの仕事にもやりがいを持てず、長続きしなかった仕事が多い。 同僚の女性と「一緒にインドへ行こう」という約束が… そんな貧BPさんの心を揺り動かす出来事が、コールセンターでバイトをしている時代にあった。 「実はコールセンターを辞めたのは、失恋が原因でした。同僚の女性に恋をしてしまったのです。その子とバイトを辞め、一緒にインドへ行こうという計画が持ち上がりました」 しかし、結局実現しなかった。話は盛り上がったのだが、次第に女性の熱が冷めていき、ついに無視されるまでなってしまった。彼女は本気ではなかったようだ。傷心の彼はコールセンターを辞め、インドに4ヶ月旅立った。 一時は正社員になって、そのまま日本で暮らすのも「アリ」だと考えた。周囲のバックパッカー友達が「社会復帰」していくのを目の当たりにしていたからだ。しかし、失恋でその考えは吹っ切れた。 「他人は他人。私はもう外こもりしか考えられなくなりました」 だが、外こもりの夢を共有できる友人、同僚はいなかった。これは精神的につらい。本音を語れるのは、ネットの中だけだった。そこで貧BPというハンドルネームを名のるようになった。 60社近くの就活、そして正社員になった理由 帰国後1社を経て、すでに30歳を越えていた彼は正社員を目指した。 「1000万を貯めて、外こもりライフを実現する」 それだけを夢見て、就活を頑張った。しかし転職回数が多く、ブランクもある。それは苦難の連続だった。 「60社近く受けて貯金も底をつきかけ、とりあえずバイトでもしようと思った矢先、求人サイトに載っていたソフトウェア開発会社から採用の連絡が来ました」 しかし入社してみると、業績も、人材の定着率もひどい会社だった。 彼以前の事務職員も長くて1年、ひどいと1ヶ月で辞めるような会社だったという。 仕事は給与計算や社員の勤怠管理。しかし、仕事量は「数人分」を要求された。 「給与は手取りで20万円くらい。昇給はほとんど無く、ボーナスも出ない。仕事は単調だけど神経を使い、一日の終わりや週末は疲れて何もする気が起きません」 「そのストレス発散のため、3連休に無理やり何度も海外に行ったりしてお金を使い貯金ができない――働けば働くほど、何をしているのかわからなくなる日々でした」 しかし、60社も受けてやっと受かった会社だ。ここを辞めたらもう後がない。そう考えて、とにかく我慢した。 この時の給料はすべて、「外こもり資金稼ぎのため」という意識になったという。しかし、結果として貯金できた額は、目標の1000万円には遠く及ばなかった。 「5年近く働く最中に、週末弾丸トラベル、FXや株式投資の失敗で貯蓄を無くし、わずか150万円で辞めることになってしまいました」 勤めた年数は5年。辞めた理由は「東日本大震災」であることは第1回で述べた。その時の心境はこうだった。 「毎日頑張っていても突然天災にあい、命をなくすこともある。外こもりになれないまま、嫌なことをやっている毎日でそのまま死ぬかもしれない」 先の見えない嫌なことを続けても、「絶対後悔する」と強く思ったという。 「もうやりたくないことにこれ以上1秒たりとも時間を使いたくない」 そんな意識が湧き上がってきた彼は衝動を抑えきれず、会社を辞め、「外こもり」へ踏み出したのだった。 (第4回につづく) ◆ 本連載は、外こもりの中でもひときわ異彩を放つ「貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅」という大人気ブログの書き手である貧BPさんに取材し、考え方や行動などを再構成し、一つの突き抜けた生き方を提示するもの。けっして働くことを否定する内容ではない。なお、貧BPという名前は、外こもり専用掲示板のハンドルネームに由来する。貧しいバックパッカー、略して貧BPである。 [恵比須半蔵(えびすはんぞう / ノンフィクションライター] 【働く人に役立つ「企業インサイダー」の記事はこちら】
サラリーマンから外こもりへ 抑えきれなかった「衝動」の理由【外こもりのすすめ(3)】
外こもりをしながら、「セカシュー」を目指した貧BPさん。しかし、日系企業の「しがらみ」や、現地企業の「ブラックさ」に辟易し、海外就職はうまくいかなかった。
だが、そんな貧BPさんにも、日本での「サラリーマン時代」があった。いったいどのような仕事をしていたのだろうか。
(過去の「外こもりのすすめ」はこちら)
大卒後、バックパッカーとして東南アジアを放浪した貧BPさん。新卒での就活は経験していない。バックパッカーを始めた当初は、アルバイトを転々として生計を立てていた。
仕事を転々とし、お金が貯まったら海外に飛び出す。経験した仕事は、とても全て把握しきれないという。
一番長く続いたのが、そのソフトウェア開発会社で5年間だ。正社員や契約社員になっても、3か月で辞めた仕事もあった。どの仕事にもやりがいを持てず、長続きしなかった仕事が多い。
同僚の女性と「一緒にインドへ行こう」という約束が…
そんな貧BPさんの心を揺り動かす出来事が、コールセンターでバイトをしている時代にあった。
しかし、結局実現しなかった。話は盛り上がったのだが、次第に女性の熱が冷めていき、ついに無視されるまでなってしまった。彼女は本気ではなかったようだ。傷心の彼はコールセンターを辞め、インドに4ヶ月旅立った。
一時は正社員になって、そのまま日本で暮らすのも「アリ」だと考えた。周囲のバックパッカー友達が「社会復帰」していくのを目の当たりにしていたからだ。しかし、失恋でその考えは吹っ切れた。
だが、外こもりの夢を共有できる友人、同僚はいなかった。これは精神的につらい。本音を語れるのは、ネットの中だけだった。そこで貧BPというハンドルネームを名のるようになった。
60社近くの就活、そして正社員になった理由
帰国後1社を経て、すでに30歳を越えていた彼は正社員を目指した。
それだけを夢見て、就活を頑張った。しかし転職回数が多く、ブランクもある。それは苦難の連続だった。
しかし入社してみると、業績も、人材の定着率もひどい会社だった。 彼以前の事務職員も長くて1年、ひどいと1ヶ月で辞めるような会社だったという。
仕事は給与計算や社員の勤怠管理。しかし、仕事量は「数人分」を要求された。
しかし、60社も受けてやっと受かった会社だ。ここを辞めたらもう後がない。そう考えて、とにかく我慢した。
この時の給料はすべて、「外こもり資金稼ぎのため」という意識になったという。しかし、結果として貯金できた額は、目標の1000万円には遠く及ばなかった。
勤めた年数は5年。辞めた理由は「東日本大震災」であることは第1回で述べた。その時の心境はこうだった。
先の見えない嫌なことを続けても、「絶対後悔する」と強く思ったという。
そんな意識が湧き上がってきた彼は衝動を抑えきれず、会社を辞め、「外こもり」へ踏み出したのだった。
(第4回につづく)
◆
本連載は、外こもりの中でもひときわ異彩を放つ「貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅」という大人気ブログの書き手である貧BPさんに取材し、考え方や行動などを再構成し、一つの突き抜けた生き方を提示するもの。けっして働くことを否定する内容ではない。なお、貧BPという名前は、外こもり専用掲示板のハンドルネームに由来する。貧しいバックパッカー、略して貧BPである。
[恵比須半蔵(えびすはんぞう / ノンフィクションライター]
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