• 徳川家康の「天下取り転職」 あえて「家臣」からのし上がった理由【歴史に学ぶ転職(1)】

    江戸幕府の創始者であり、戦国の世に終止符を打った徳川家康。彼が天下人になったのは74歳である。現代で考えれば、とっくに定年退職の年齢を過ぎているわけだが、なぜここまで遅くなったのか?

    その背景には、豊臣秀吉のもとへと一時「転職」していたことが深く影響している。そのきっかけとなったのが、豊臣秀吉と徳川家康が一度だけ対決した「小牧・長久手の戦い」(1584年)だ。

     “転職”のきっかけとなった小牧・長久手の戦い

    当時の状況をおさらいしよう。織田信長亡き後の日本では、全国で多くの武将が覇権争いを続けていた。その中で最も天下に近かったのが豊臣秀吉だった。

    彼は織田派の反対勢力を倒しつつ、信長の次男長男・信雄(のぶかつ)とも対立を深めていた。秀吉に危機感を抱いた信雄は、織田家の同盟相手だった家康に助勢を頼む。

    その頃の家康は駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国を領有しており、実力は秀吉と肩を並べるレベルだった。信雄からの救援要請は、秀吉の力を一気に奪う千載一遇のチャンスだったといえる。

    信雄側についた家康は小牧山に陣を構え、秀吉軍と長久手の地で激突した。戦力では秀吉に劣る家康だったが、地形を生かした戦術や、伊賀忍者を駆使した情報力で勝利し、野戦の名将としての評価されるほどの強さを見せつける。

    しかし秀吉も負けてはいない。すぐさま信雄の支配する伊勢に攻め入り、信雄を懐柔してしまった。信雄のサポート役という大義名分を失った家康は、休戦の条約に応じるしかなかった。

    結果的に、家康は小牧・長久手の戦いで大きなメリットを得られなかった。……が、彼の「転職」が始まるのはここからだ。

     あえて秀吉を討たず、その家臣となったワケ

    家康の有能さを見抜いた秀吉は、京に上って豊臣家に仕えることを要求した。要は「スカウト」である。さすがに即答できない家康に対し、秀吉は人質として実の妹と母を家康のもとに送り、従わざるを得ない状況を作ってしまう。

    この執拗なリクルートに折れた家康は天正14年(1586年)、秀吉に従う意を示した。当時45歳だった家康は、その後29年間も豊臣家に仕えることとなる。

    なぜ家康は天下を狙わず、秀吉に従うことを選んだのだろうか? 当時の45歳を現代と同じように考えることはできないが、それでも男としての脂が乗った時期であることは間違いない。また、家康には北条氏などのや長宗我部氏といった反秀吉勢力と組み、秀吉と全面対決する道も残されていた。

    部下からの疑問に、家康は「今の秀吉は勢いがある。逆らえば破滅のもととなるだろう」と答えたという。その言葉通り、秀吉は島津氏や伊達氏などの有力大名を次々と討伐し、北条氏も滅ぼした。家康の「転職」はベストタイミングだったのだ。

    その後、家康は五大老筆頭という豊臣家の家臣では最高のポストと関東8ヶ国を手に入れる。豊臣政権のブレーンとして得た周囲からの信頼は後年、関ヶ原の戦いで細川氏や伊達氏などの実力者を味方につける原因となった。

    秀吉の死後、家康が天下を獲れたのは、豊臣家臣時代に蓄積した経済力と人脈があってこそといえる。

    豊臣家に「転職」してからの家康は、天下人というゴールを思い描いて行動していただろう。ブレないキャリアプランのもと、転職先を利用して豊富なノウハウや人脈、経験を得たのである。

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