• 村医者から「軍事の天才」に 大村益次郎的「人生逆転」のヒケツ【歴史に学ぶ転職(2)】

    「適材適所」という言葉がある。幕末、長州藩の兵学者として活躍した大村益次郎は、その言葉を「転職」によって体現した人物だ。戦闘のプロの武士ではなく、一介の村医者にすぎなかった彼が、動乱の時代に自分の才能をどう活かしたのか。 

    のちに幕府との戦争では長州藩兵を率いて、「軍事の天才」と絶賛された益次郎だが、そんな彼にも「ダメ医者」と呼ばれた時代があった。

     ダメ医者に転機をもたらした「黒船」

    1824年、現在の山口県吉敷郡で村医者の跡取りとして生まれ、23歳のとき大坂の医師・緒方洪庵に西洋医学を学んだ。

    鎖国まっただ中の日本で、西洋の学問を学ぶ手段はオランダ経由の「蘭学」だけ。海外の技術に興味を持った益次郎は、医学の他にも語学、化学、兵学など、さまざまな西洋の学問をマスターしていく。

    実家の医者を継いだのは、27歳のとき。医学の知識は豊富な益次郎でも、肝心の医者としての素質はゼロだった。

    そのダメ医者ぶりについては後年、弟子さえも「先生は治療のことは何もご存じない」と証言している。何事も理詰めで考える性格で空気を読まない言動も多く、患者からの評判もすこぶる悪かった。

    自分に向かない医者の仕事に見切りをつけて、もっと自分の知識を活かせるポジションに「転職」したい……。思い悩む益次郎に、転機は突然やってきた。

    1853年夏、ペリー提督が率いるアメリカ合衆国海軍の艦船が、江戸湾浦賀沖に来航。いわゆる「黒船襲来」である。翌年には日米和親条約が締結され、日本は200余年ぶりに鎖国体制を解除した。

     どんな天才にも「才能を活かせる場所」が必要

    将軍家や諸藩は外国からの攻撃を警戒し、西洋の化学技術や軍事に詳しい人材のニーズが急上昇した。そんな動きは、益次郎にとって人生逆転のチャンスとなった。

    彼は知人の蘭学者・二宮敬作の推薦により、宇和島藩(現在の愛媛県)の兵学者にスカウトされる。そこで蘭学書の翻訳や西洋兵学の研究に従事したあと、33歳のときに藩主に従って江戸に出る。

    それ以後も宇和島藩に籍を置いていたものの、蘭学塾を経営したり、幕府の教育機関で西洋兵学の講義に関わったりと、急速に活動の範囲を広げていく。

    1860年、益次郎は同郷の長州藩から、西洋兵術の教授方としてスカウトを受ける。当時の長州藩は、西洋の技術・知識の導入に積極的だった上に、身分・家柄にこだわらない人材登用を行っていた。

    そこには桂小五郎や高杉晋作など、のちの倒幕運動から明治維新までに関わる人材が集まっていた。益次郎にとって、西洋兵術の専門家としてのキャリアをフルに活かせる「最高の転職先」だったといえる。

    “転職”後の益次郎が活躍のピークを迎えるのは、1865年に長州藩が倒幕を公式に表明してからだ。藩の軍制改革というミッションを与えられた彼は、イギリスから最新の西洋兵器を購入する一方、兵士の育成や軍の組織改編にも取り組んだ。

    その結果、長州軍を日本初の近代的軍隊に生まれ変わらせることに成功する。その後も、第2次長州征伐、戊辰戦争と続く幕府との戦いでは、強力な軍備と合理的な戦術によって長州藩を勝利に導き、明治維新への道を切り開いた。

    益次郎が「ダメ医者」から人生を逆転できたのは、非凡な才能があったからと言う人もいるだろう。しかし、どんな天才でも才能を活かせる場所がなければ、ただの凡人として埋もれてしまう。自分の適性に合った場所を見極めることこそ、「転職」成功のカギといえる。

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