公務員から「浮世絵師」へ リスクを取った広重の「勝算」と「戦略」【歴史に学ぶ転職(第3回)】 2013年10月18日 差がつく転職裏事情 ツイート 歌川広重。名前にピンとこなくとも、「東海道五十三次」「名所江戸百景」といった作品名や、彼の絵に見覚えがある人も多いだろう。 歴史に残る浮世絵師の広重だが、実はもともと武士だった。もっと詳しく言えば、江戸時代の下級公務員である「幕府御家人」だったのだ。 安定した武士の暮らしを捨てて、絵師に“転職”した彼を待っていたのは「30半ばまでヒット作なし」という厳しい現実だった。そんながけっぷちから、彼が名所絵(風景画)の第一人者になれた理由を探ってみる。 浮世絵は趣味の延長の「副業」だった 広重は1797年、江戸で定火消(じょうびけし)同心・安藤源右衛門の長男として生まれた。定火消同心とは幕府直属の消防組織で、現代であれば消防署の職員に近いポジションである。 俸給(給与)は三十俵二人扶持で、御家人(下級の将軍直臣)の中では最も少なかったが、安定した収入が保証されているだけ、その日暮らしの町人に比べればマシだった。 しかし当時の江戸は激しいインフレが続き、御家人の暮らしは給与だけで成り立たない。そこで家計維持のために植木の栽培や傘張り、提灯張りなどの副業をするのが当たり前だったのである。 広重が選んだ副業は、子供のころから興味があった浮世絵の道だった。彼は13歳で家を継ぐのだが、その2年後に浮世絵師・歌川豊広に入門して、絵師としてのキャリアをスタートさせる。 絵の道に夢中になった広重は「好きなことを本職にしたい」と考え始める。そして勢い余って27歳のとき養子に家を譲って、専業の浮世絵師に“転職”してしまうのだ。 広重は精力的に仕事の幅を広げていくが、何を描いても鳴かず飛ばずの日々が続く。1830年には師匠の豊広がこの世を去り、32歳にして後ろ盾まで失ってしまう。 今も昔も、30代はその後のキャリアを左右する重要な時期であることに変わりがない。そんなときに彼は「金なし、実績なし、コネもなし」の状況に追い込まれたのだ。 (関連:無能でサボる人ほど報われる公務員) 第一人者・北斎のスキマを突いて売れっ子へ 逆転のチャンスが舞い込んだのは1831年だ。きっかけは、江戸の名所をモチーフとした名所絵(風景画)の依頼が来たことだった。 当時、江戸では全国各地の景勝地を描いた「名所絵」が大ブームだった。気軽な旅もままならなかった人々は、せめて絵の世界で旅の気分を味わったのである。 名所絵では大ヒット作「富嶽三十六景」を発表した葛飾北斎が、人気絵師の座を独り占めしていたが、アクが強い北斎の絵は、実は人々に飽きられ始めてもいた。 そこに広重は日本画の技法を使い、低い水平線や遠近法、大胆な構図など写実的な印象の名所絵で人々の話題をさらう。「東都名所」や「本朝名所」といった、紙の上でリアルな景観を表現した広重の絵は、人々に新鮮な衝撃を与えるのに十分だった。 この成功で手ごたえをつかんだ広重は、さらなる大勝負に出る。1833年、東海道の宿場53ヶ所を描いた続き物の大作「東海道五十三次」の刊行である。スケールの大きさが評価された同作は、空前の大ヒットとなった。一躍、売れっ子絵師となった広重は、同時に名所絵の第一人者としての地位も確立する。 「好きなことを仕事にしたい」という考えで安易に“転職”すると、理想が高いあまり、厳しい現実に直面することが多い。広重もそうだった。まずは市場のニーズを分析し、競合勢力が気づかない「戦略」を立ち上げることが大事だ。それによって広重は成功をつかんだのである。 【働く人に役立つ「企業インサイダー」の記事はこちら】
公務員から「浮世絵師」へ リスクを取った広重の「勝算」と「戦略」【歴史に学ぶ転職(第3回)】
歌川広重。名前にピンとこなくとも、「東海道五十三次」「名所江戸百景」といった作品名や、彼の絵に見覚えがある人も多いだろう。
歴史に残る浮世絵師の広重だが、実はもともと武士だった。もっと詳しく言えば、江戸時代の下級公務員である「幕府御家人」だったのだ。
安定した武士の暮らしを捨てて、絵師に“転職”した彼を待っていたのは「30半ばまでヒット作なし」という厳しい現実だった。そんながけっぷちから、彼が名所絵(風景画)の第一人者になれた理由を探ってみる。
浮世絵は趣味の延長の「副業」だった
広重は1797年、江戸で定火消(じょうびけし)同心・安藤源右衛門の長男として生まれた。定火消同心とは幕府直属の消防組織で、現代であれば消防署の職員に近いポジションである。
俸給(給与)は三十俵二人扶持で、御家人(下級の将軍直臣)の中では最も少なかったが、安定した収入が保証されているだけ、その日暮らしの町人に比べればマシだった。
しかし当時の江戸は激しいインフレが続き、御家人の暮らしは給与だけで成り立たない。そこで家計維持のために植木の栽培や傘張り、提灯張りなどの副業をするのが当たり前だったのである。
広重が選んだ副業は、子供のころから興味があった浮世絵の道だった。彼は13歳で家を継ぐのだが、その2年後に浮世絵師・歌川豊広に入門して、絵師としてのキャリアをスタートさせる。
絵の道に夢中になった広重は「好きなことを本職にしたい」と考え始める。そして勢い余って27歳のとき養子に家を譲って、専業の浮世絵師に“転職”してしまうのだ。
広重は精力的に仕事の幅を広げていくが、何を描いても鳴かず飛ばずの日々が続く。1830年には師匠の豊広がこの世を去り、32歳にして後ろ盾まで失ってしまう。
今も昔も、30代はその後のキャリアを左右する重要な時期であることに変わりがない。そんなときに彼は「金なし、実績なし、コネもなし」の状況に追い込まれたのだ。
(関連:無能でサボる人ほど報われる公務員)
第一人者・北斎のスキマを突いて売れっ子へ
逆転のチャンスが舞い込んだのは1831年だ。きっかけは、江戸の名所をモチーフとした名所絵(風景画)の依頼が来たことだった。
当時、江戸では全国各地の景勝地を描いた「名所絵」が大ブームだった。気軽な旅もままならなかった人々は、せめて絵の世界で旅の気分を味わったのである。
名所絵では大ヒット作「富嶽三十六景」を発表した葛飾北斎が、人気絵師の座を独り占めしていたが、アクが強い北斎の絵は、実は人々に飽きられ始めてもいた。
そこに広重は日本画の技法を使い、低い水平線や遠近法、大胆な構図など写実的な印象の名所絵で人々の話題をさらう。「東都名所」や「本朝名所」といった、紙の上でリアルな景観を表現した広重の絵は、人々に新鮮な衝撃を与えるのに十分だった。
この成功で手ごたえをつかんだ広重は、さらなる大勝負に出る。1833年、東海道の宿場53ヶ所を描いた続き物の大作「東海道五十三次」の刊行である。スケールの大きさが評価された同作は、空前の大ヒットとなった。一躍、売れっ子絵師となった広重は、同時に名所絵の第一人者としての地位も確立する。
「好きなことを仕事にしたい」という考えで安易に“転職”すると、理想が高いあまり、厳しい現実に直面することが多い。広重もそうだった。まずは市場のニーズを分析し、競合勢力が気づかない「戦略」を立ち上げることが大事だ。それによって広重は成功をつかんだのである。
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