クジ引きで将軍決定!? 室町幕府を衰退させたズサンな人事【歴史に学ぶ転職4】 2013年11月12日 差がつく転職裏事情 ツイート 人材が思ったように採用できないとき、切羽詰まった企業はつい安易な採用を行ってしまうことがある。しかし、無責任な選考によって「モンスター人材」を採用してしまったら、後の組織に大きな損害を招きかねない。 そんな「大失敗」が、かつて室町幕府であった。きっかけは1428年、4代将軍・義持が、突然の危篤に見舞われたことだった。 タナボタで決まった跡継ぎが「専制経営」 義持の一人息子で5代将軍・義量(よしかず)は3年前に世を去っており、義持は代理で将軍職を務めていた。彼の死期を悟った重臣たちは、急きょ跡継ぎを決める必要に迫られる。そこで義持の実弟4人が候補にあがった。 しかし、あまりに急な事態であったため、重臣たちは誰を選べばいいのかわからない。仕方なく補佐役である管領(かんれい)の一人・畠山満家を石清水八幡宮の神前に行かせ、なんと候補者の名を書いた4枚の「クジ」から1枚を選ばせることにしたのである。 はたして選ばれたクジにあったのは、足利義教の名前だった。義教は15歳で京都・青蓮院にて出家し、25歳のときに比叡山・延暦寺の総元締めである「天台座主」に就任していた。 「親の七光」もあったとはいえ「数十年に一人の逸材」と期待されていたというから、そのままいけば「稀代の名僧」として名を残したのかもしれない。しかし、早く将軍を決めたかった重臣たちの説得に押し切られる形で、義教は6代将軍への“転職”を余儀なくされた。 室町幕府では、政治ごとはすべて将軍家と守護大名たちによる「合議制」で決められていた。先代将軍・義持は管領や側近たちの意見を聞いて物事を決めており、将軍が独断で行動するなどありえないことだった。 ところが、義教は将軍に就任するなり「将軍家による専制政治」を掲げ、軍事力にものを言わせて邪魔者に次々と難癖をつけて潰し始める。その中には守護大名だけでなく、僧侶や自分の実弟、一族まで含まれていたのだから恐ろしい。 (最新記事はこちら) 「家来に討たれる」失態で幕府の権威大暴落 さらに義教は、説教をしようとした僧侶に腹を立てて舌を切ったり、酌の下手な侍女を殴って尼にしたりと私生活でも残虐な一面を見せる。「悪御所」と呼ばれ、当時の書物によると武家や庶民を含めずとも公卿、神官、僧侶など100人以上が犠牲になったとされている。 彼は財政再建や軍事改革の成功、九州・関東の反乱勢力の平定など、将軍としての功績も多いのだが、それもかすんでしまうほどの「モンスター人材」だった。 義教は1441年、恐怖政治によって「自分が殺される」と考えた守護大名の一人に討たれる。「嘉吉の乱」である。「将軍が家来に討たれる」という前代未聞の失態によって、室町幕府の権威は大暴落してしまう。 つまり室町幕府の衰退は、最悪の人事がきっかけだったのだ。将軍は、企業でいえば社長にあたる人材。オーナー企業の後任選びで、同様のことは起こっていないだろうか。 社長に限らずとも、「採用した人材がイメージと違っていた」というミスマッチは現代でもよくあることだ。採用時には最悪のケースまで想定し、よく吟味して「モンスター人材」をつかまないようにしたいものだ。 (最新の記事は @kigyo_insiderへ)
クジ引きで将軍決定!? 室町幕府を衰退させたズサンな人事【歴史に学ぶ転職4】
人材が思ったように採用できないとき、切羽詰まった企業はつい安易な採用を行ってしまうことがある。しかし、無責任な選考によって「モンスター人材」を採用してしまったら、後の組織に大きな損害を招きかねない。
そんな「大失敗」が、かつて室町幕府であった。きっかけは1428年、4代将軍・義持が、突然の危篤に見舞われたことだった。
タナボタで決まった跡継ぎが「専制経営」
義持の一人息子で5代将軍・義量(よしかず)は3年前に世を去っており、義持は代理で将軍職を務めていた。彼の死期を悟った重臣たちは、急きょ跡継ぎを決める必要に迫られる。そこで義持の実弟4人が候補にあがった。
しかし、あまりに急な事態であったため、重臣たちは誰を選べばいいのかわからない。仕方なく補佐役である管領(かんれい)の一人・畠山満家を石清水八幡宮の神前に行かせ、なんと候補者の名を書いた4枚の「クジ」から1枚を選ばせることにしたのである。
はたして選ばれたクジにあったのは、足利義教の名前だった。義教は15歳で京都・青蓮院にて出家し、25歳のときに比叡山・延暦寺の総元締めである「天台座主」に就任していた。
「親の七光」もあったとはいえ「数十年に一人の逸材」と期待されていたというから、そのままいけば「稀代の名僧」として名を残したのかもしれない。しかし、早く将軍を決めたかった重臣たちの説得に押し切られる形で、義教は6代将軍への“転職”を余儀なくされた。
室町幕府では、政治ごとはすべて将軍家と守護大名たちによる「合議制」で決められていた。先代将軍・義持は管領や側近たちの意見を聞いて物事を決めており、将軍が独断で行動するなどありえないことだった。
ところが、義教は将軍に就任するなり「将軍家による専制政治」を掲げ、軍事力にものを言わせて邪魔者に次々と難癖をつけて潰し始める。その中には守護大名だけでなく、僧侶や自分の実弟、一族まで含まれていたのだから恐ろしい。
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「家来に討たれる」失態で幕府の権威大暴落
さらに義教は、説教をしようとした僧侶に腹を立てて舌を切ったり、酌の下手な侍女を殴って尼にしたりと私生活でも残虐な一面を見せる。「悪御所」と呼ばれ、当時の書物によると武家や庶民を含めずとも公卿、神官、僧侶など100人以上が犠牲になったとされている。
彼は財政再建や軍事改革の成功、九州・関東の反乱勢力の平定など、将軍としての功績も多いのだが、それもかすんでしまうほどの「モンスター人材」だった。
義教は1441年、恐怖政治によって「自分が殺される」と考えた守護大名の一人に討たれる。「嘉吉の乱」である。「将軍が家来に討たれる」という前代未聞の失態によって、室町幕府の権威は大暴落してしまう。
つまり室町幕府の衰退は、最悪の人事がきっかけだったのだ。将軍は、企業でいえば社長にあたる人材。オーナー企業の後任選びで、同様のことは起こっていないだろうか。
社長に限らずとも、「採用した人材がイメージと違っていた」というミスマッチは現代でもよくあることだ。採用時には最悪のケースまで想定し、よく吟味して「モンスター人材」をつかまないようにしたいものだ。
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