• 戦国の勝負師・黒田官兵衛が成り上がった「大バクチ」の中身―歴史に学ぶ転職(5)

    2014年大河ドラマの主人公・黒田官兵衛。信長、秀吉、家康とめまぐるしくリーダーが変わる戦国の世を巧みに泳いだ彼を、昭和の文豪・坂口安吾は「賭博師」と呼んだ。合戦を「バクチ」と呼び、つねに命を賭け続けた勝負師の半生を、黒田家の公式記録『黒田家譜』から追ってみよう。

    信長との連携を決めたのは「直感」

    1575年、織田信長が率いる軍勢は、当時最強だった武田家の騎馬軍団を三河(当時の愛知県)・長篠で大敗させる。これにより織田家は最も天下に近い戦国大名の一人として、全国の武将の間に名をとどろかせる。

    信長は政治・経済の中枢だった京都の支配権を押さえると、全国区に勢力を広げるため、西日本ブロックの制圧に乗り出す。そこで最大の課題となったのが、安芸(当時の広島県)の毛利家の攻略である。

    両者の緊張が高まるにつれて、織田と毛利のどちらにつくか迷う西日本の武将が続出する。官兵衛の上司だった播磨国(現在の兵庫県)の小大名・小寺政職(まさもと)もその一人だった。

    小寺家の大半は織田家を「成り上がりの新興勢力」と見ており、地理的にも近い毛利家に従うのが自然と考えていた。しかし当時の情勢を的確に分析した官兵衛だけは「織田家に賭けるべき」と主張する。

    官兵衛は政職を説得すると、信長の住む岐阜城に単身向かい、織田家重臣だった秀吉の仲介を得て、両家の提携関係を取りまとめてしまう。長篠の戦いからわずか2か月後という、電光石火の早ワザだった。

    投獄され人生最大のピンチ

    1577年、信長は官兵衛の助言を受けて秀吉に中国地方の攻略を命じる。が、ここで予想外の出来事が起きる。織田家に従っていた三木城主・別所長治と、織田家重臣・荒木村重が立て続けに毛利方に寝返るのだ。これらの動きに動揺した政職も、村重と手を組んでしまう。

    政職に裏切りの撤回を説く官兵衛。そんな彼に政職は「村重のこもる伊丹・有岡城へ行き、彼を説得できれば織田家に従う」と答える。が、有岡城に向かった官兵衛は、政職から連絡を受けていた村重に捕えられてしまうのだ。

    一方、信長は官兵衛の帰りが遅いことから、彼も村重に寝返ったと判断した。そして人質として預かっていた官兵衛の嫡子・松寿丸(後の長政)の殺害を、秀吉の軍師・竹中半兵衛に命じる。だが、秀吉とのやりとりで官兵衛の人柄を知る半兵衛は、その無実を信じて、松寿丸を殺さずひそかにかくまう。

    官兵衛が有岡城から救出されたのは1年後だった。瀕死の官兵衛からいきさつを知った秀吉は、死を覚悟して有岡城に行った官兵衛の誠実さに感激したという。信長も松寿丸の殺害命令を後悔したが、松寿丸の生存を知ると大いに喜んだ。1年間の獄中生活とひきかえに、官兵衛は織田グループからの信頼を獲得したのである。

    「考えすぎてはチャンスを逃がす」

    小寺家も信長に滅ぼされた後、官兵衛は秀吉付きの軍師として大出世を果たす。その後は秀吉が信長の後継者として天下を取るのに貢献した。時代の主導権が家康に移ってからも、子孫に福岡藩52万石をちゃっかり残している。

    臨終の際、官兵衛は長政にこう言い残したという。

    「戦は生きるか死ぬかの大バクチだ。先の手を考え過ぎてはチャンスを逃がす」

    先を読むことにすぐれていた官兵衛は、晩年も関ヶ原の戦いや家康の天下を予言したという。情報に惑わされ判断を誤ることの怖さを知り抜いていた彼だからこそ、信長の真価を見抜き、生死ギリギリの賭けにことごとく勝てた。そんな官兵衛の人生はまさに「戦国一の勝負師」と呼ぶにふさわしい。

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