• イマニュエル・カント 『純粋理性批判』

    「考える、とは何か」を、根本から考える。
    一度は取り組んでみたい「判断の根拠」さがし。

     カントには、わくわくするような面白さはない。ヘーゲルやマルクスの著書のような、躍動するような興奮は、期待できない。しかし、カントがやろうとしたことは、単純でわかりやすい。
     それは、現代人でもせめて一度は向き合ってよい難問だ。いや、現代ビジネスマンだからこそ、というべきだろうか。『純粋理性批判』のテーマとは、簡単にいうならば、

    「あなたが、なにかを判断する。その根拠はなにか」

     という問題だ。
     意識にとって、ものを認識するとは、どういうことだろう。それをもしも自力で考えるならば、だれもが一度は、カントのたどった道筋を、同じように自分でもたどらなければならないと気づくだろう。それが、カントを読む価値である。
     すでに近代を通過し、現代という時代を生きる人間にとって、『純粋理性批判』が退屈なのは当然だ。しかしそれは、本来ならば一度は考えてよいはずの問題を、さぼって通過できるからに過ぎない。

     たとえば、これは正しいだろうか。
    「アメリカ合衆国の現在の首都は、ワシントンDCである」
     まあ、もちろん、正しい。そのように、多くの人が認めるはずだ。
     しかし、なぜなのか。
    つまり、実際にアメリカに行ったこともなく、ワシントンの首都機能を見たこともない人までが、なぜ「ワシントンはアメリカの首都だ」と確信できるのか。
     あるいは、こうでもいい。
    「遺伝子は、細胞の核にある染色体に収められている」
    「太陽系の土星という惑星は、輪をもっている」
     どうだろう。どれも多くの人が、これを「正しい」と考えるはずだ。ところが、本当にDNAのらせん構造や土星の輪を、自分の目で見たことがある人はほとんどいない。見たこともないのに、そう信じている。あるいは、仮に電子顕微鏡や天体望遠鏡でそれらを見たとしても、ではなぜそれが、遺伝子や惑星であると考えることができるのか。

     カントは、その手順をひたすら丁寧に丁寧に、考えていった。主著『純粋理性批判』が挑んだのは、こうした人間の認識を根本から問い直すことだった。
     カントはまず、どうしてもこれだけは疑うことのできない土台として、「時間」と「空間」をあげた。この二つの実在だけは、避けて通れないと考えたのだ。
    「時間と空間とは二つの認識源泉であり、これらの源泉からそれぞれ相違なるア・プリオリな総合的認識がくみ出され得る」(岩波文庫版・上105ページ)
     そして、この絶対時間と絶対空間を、最低限のものとして承認した上で、人間が「判断する」「考える」という仕組み整理したのである。
    これは有名な「カテゴリー表」だ。次のように分類される。

    カント カテゴリー表

     カントは説明している。
    「これが即ち根源的に純粋な概念を列挙した表である」(同153ページ)
     すなわち、「時間」と「空間」を直観の形式として認めた上で、思考の形式としての4種類を措定して、それぞれ3つずつの枠組みを与えている。この12個の組み合わせによって、あらゆる純粋な理性的認識が、経験に依存することなしに可能となると考えたのだ。
     まず、「ここにリンゴが1個ある」と認める。そこから、「そこにある1個も、同じリンゴというものだ」と認識したり、「世界にはたくさんのリンゴがある」と認識できたりする。自分では見たことがないリンゴが、言ったこともない町にも、あるのだと思考できる。
     カントは中巻以降の『純粋理性批判』で、四つのアンチノミー(二律背反)を提示し、さらに困難な問題と格闘していく。
    「考えるとは何か」ということを、考える。この驚くべき書物の登場によって、近代への扉が開かれたといえる。

     

     

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