イマニュエル・カント 『純粋理性批判』 2012年3月14日 ビジネスの書棚 ツイート 「考える、とは何か」を、根本から考える。一度は取り組んでみたい「判断の根拠」さがし。 カントには、わくわくするような面白さはない。ヘーゲルやマルクスの著書のような、躍動するような興奮は、期待できない。しかし、カントがやろうとしたことは、単純でわかりやすい。 それは、現代人でもせめて一度は向き合ってよい難問だ。いや、現代ビジネスマンだからこそ、というべきだろうか。『純粋理性批判』のテーマとは、簡単にいうならば、 「あなたが、なにかを判断する。その根拠はなにか」 という問題だ。 意識にとって、ものを認識するとは、どういうことだろう。それをもしも自力で考えるならば、だれもが一度は、カントのたどった道筋を、同じように自分でもたどらなければならないと気づくだろう。それが、カントを読む価値である。 すでに近代を通過し、現代という時代を生きる人間にとって、『純粋理性批判』が退屈なのは当然だ。しかしそれは、本来ならば一度は考えてよいはずの問題を、さぼって通過できるからに過ぎない。 ◇ たとえば、これは正しいだろうか。「アメリカ合衆国の現在の首都は、ワシントンDCである」 まあ、もちろん、正しい。そのように、多くの人が認めるはずだ。 しかし、なぜなのか。つまり、実際にアメリカに行ったこともなく、ワシントンの首都機能を見たこともない人までが、なぜ「ワシントンはアメリカの首都だ」と確信できるのか。 あるいは、こうでもいい。「遺伝子は、細胞の核にある染色体に収められている」「太陽系の土星という惑星は、輪をもっている」 どうだろう。どれも多くの人が、これを「正しい」と考えるはずだ。ところが、本当にDNAのらせん構造や土星の輪を、自分の目で見たことがある人はほとんどいない。見たこともないのに、そう信じている。あるいは、仮に電子顕微鏡や天体望遠鏡でそれらを見たとしても、ではなぜそれが、遺伝子や惑星であると考えることができるのか。 ◇ カントは、その手順をひたすら丁寧に丁寧に、考えていった。主著『純粋理性批判』が挑んだのは、こうした人間の認識を根本から問い直すことだった。 カントはまず、どうしてもこれだけは疑うことのできない土台として、「時間」と「空間」をあげた。この二つの実在だけは、避けて通れないと考えたのだ。「時間と空間とは二つの認識源泉であり、これらの源泉からそれぞれ相違なるア・プリオリな総合的認識がくみ出され得る」(岩波文庫版・上105ページ) そして、この絶対時間と絶対空間を、最低限のものとして承認した上で、人間が「判断する」「考える」という仕組み整理したのである。これは有名な「カテゴリー表」だ。次のように分類される。 カントは説明している。「これが即ち根源的に純粋な概念を列挙した表である」(同153ページ) すなわち、「時間」と「空間」を直観の形式として認めた上で、思考の形式としての4種類を措定して、それぞれ3つずつの枠組みを与えている。この12個の組み合わせによって、あらゆる純粋な理性的認識が、経験に依存することなしに可能となると考えたのだ。 まず、「ここにリンゴが1個ある」と認める。そこから、「そこにある1個も、同じリンゴというものだ」と認識したり、「世界にはたくさんのリンゴがある」と認識できたりする。自分では見たことがないリンゴが、言ったこともない町にも、あるのだと思考できる。 カントは中巻以降の『純粋理性批判』で、四つのアンチノミー(二律背反)を提示し、さらに困難な問題と格闘していく。「考えるとは何か」ということを、考える。この驚くべき書物の登場によって、近代への扉が開かれたといえる。
イマニュエル・カント 『純粋理性批判』
「考える、とは何か」を、根本から考える。
一度は取り組んでみたい「判断の根拠」さがし。
カントには、わくわくするような面白さはない。ヘーゲルやマルクスの著書のような、躍動するような興奮は、期待できない。しかし、カントがやろうとしたことは、単純でわかりやすい。
それは、現代人でもせめて一度は向き合ってよい難問だ。いや、現代ビジネスマンだからこそ、というべきだろうか。『純粋理性批判』のテーマとは、簡単にいうならば、
「あなたが、なにかを判断する。その根拠はなにか」
という問題だ。
意識にとって、ものを認識するとは、どういうことだろう。それをもしも自力で考えるならば、だれもが一度は、カントのたどった道筋を、同じように自分でもたどらなければならないと気づくだろう。それが、カントを読む価値である。
すでに近代を通過し、現代という時代を生きる人間にとって、『純粋理性批判』が退屈なのは当然だ。しかしそれは、本来ならば一度は考えてよいはずの問題を、さぼって通過できるからに過ぎない。
◇
たとえば、これは正しいだろうか。
「アメリカ合衆国の現在の首都は、ワシントンDCである」
まあ、もちろん、正しい。そのように、多くの人が認めるはずだ。
しかし、なぜなのか。
つまり、実際にアメリカに行ったこともなく、ワシントンの首都機能を見たこともない人までが、なぜ「ワシントンはアメリカの首都だ」と確信できるのか。
あるいは、こうでもいい。
「遺伝子は、細胞の核にある染色体に収められている」
「太陽系の土星という惑星は、輪をもっている」
どうだろう。どれも多くの人が、これを「正しい」と考えるはずだ。ところが、本当にDNAのらせん構造や土星の輪を、自分の目で見たことがある人はほとんどいない。見たこともないのに、そう信じている。あるいは、仮に電子顕微鏡や天体望遠鏡でそれらを見たとしても、ではなぜそれが、遺伝子や惑星であると考えることができるのか。
◇
カントは、その手順をひたすら丁寧に丁寧に、考えていった。主著『純粋理性批判』が挑んだのは、こうした人間の認識を根本から問い直すことだった。
カントはまず、どうしてもこれだけは疑うことのできない土台として、「時間」と「空間」をあげた。この二つの実在だけは、避けて通れないと考えたのだ。
「時間と空間とは二つの認識源泉であり、これらの源泉からそれぞれ相違なるア・プリオリな総合的認識がくみ出され得る」(岩波文庫版・上105ページ)
そして、この絶対時間と絶対空間を、最低限のものとして承認した上で、人間が「判断する」「考える」という仕組み整理したのである。
これは有名な「カテゴリー表」だ。次のように分類される。
カントは説明している。
「これが即ち根源的に純粋な概念を列挙した表である」(同153ページ)
すなわち、「時間」と「空間」を直観の形式として認めた上で、思考の形式としての4種類を措定して、それぞれ3つずつの枠組みを与えている。この12個の組み合わせによって、あらゆる純粋な理性的認識が、経験に依存することなしに可能となると考えたのだ。
まず、「ここにリンゴが1個ある」と認める。そこから、「そこにある1個も、同じリンゴというものだ」と認識したり、「世界にはたくさんのリンゴがある」と認識できたりする。自分では見たことがないリンゴが、言ったこともない町にも、あるのだと思考できる。
カントは中巻以降の『純粋理性批判』で、四つのアンチノミー(二律背反)を提示し、さらに困難な問題と格闘していく。
「考えるとは何か」ということを、考える。この驚くべき書物の登場によって、近代への扉が開かれたといえる。