• トマージ・ディ・ランペドゥーサ 『山猫』

    「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない」
    変革に波にもまれ、のし上がり、あるいは退いていく。その人間模様。

    民主党の小沢一郎が、好きな言葉としてしばしば引用するのが、イタリア映画界の巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の名作『山猫』のせりふだ。
    小沢は、2006年に民主党の代表選挙に臨んだ際、自分の政見演説の終盤をこんな言葉でまとめている。

    「最後に、私はいま、青年時代に見た映画『山猫』のクライマックスの台詞を思い出しております。イタリア統一革命に身を投じた甥を支援している名門の公爵に、ある人が『あなたのような方がなぜ革命軍を支援するのですか』とたずねました。バート・ランカスターの演じる老貴族は静かに答えます。『変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない』。英語で言うと We must change to remain the same. ということ」

    変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない――。
    この言葉を、小沢は演説や講演などでもよく使っている。

    だが残念ながら、映画『山猫』で、老貴族の公爵ドン・ファブリーツィオにそんな言葉はない。
    おそらくは、40年も前に小沢が見たであろう公開当初の『山猫』が、短縮した英語版であったために誤って翻訳や編集されていたか、そうでなければ本人の単なる記憶違いだ。

    この言葉の出所は、実際はまったく逆だ。
    公爵が革命軍を支援する思いを述べたのではなく、逆に公爵の甥のタンクレディが革命軍に参加していることに苛立ち、「狂ったのか、君は!」と公爵が問い詰めたのに対して、タンクレディのほうが答えた言葉だ。
    クライマックスでもない。
    むしろ前半部。
    原作のトマージ・ディ・ランペドゥーサ作『山猫』では、タンクレディは公爵にこう訴える。

    「すべて現状のままであって欲しいからこそ、すべてが変わる必要があるのです」

    ランペドゥーサの長編小説『山猫』は、1860年のイタリア・シチリア島が主な舞台だ。
    祖国統一戦争の中で、改革派に参画する甥と新興階級の娘との結婚を軸に、滅びてゆく階級としての貴族と、それに取って代わる新興ブルジョワジー階級の姿を描いている。

    ランペドゥーサ自身が貴族の末裔であり、この作品が唯一の小説でもある。
    だがこの一作で彼はでストレーガ賞を受賞し、文学史に名を残すことになった。
    そして、小沢が脳内変換してまった決めゼリフとはいえ、この「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない」という言葉は、作品の主題を表現したものとして、なかなか見事に的を射ている。
    ヴィスコンティもまた貴族の末裔だった。
    原作者と監督の二人に共通する生き方もまた、変わらずに生きるために、自らを変革することだった。
    作品タイトルの「山猫」は、公爵一族の紋章である。
    ドン・ファブリーツィオは、物語の中盤、自分を上院議員に推挙しようする動きを伝える使者に、その好意を丁重に断り、心の中でこうつぶやいている。

    「われわれは『山猫』だった。われわれに取って代わるのは、ジャッカルかハイエナか。しかしすべての『山猫』も、ジャッカルも羊も、自分が『地の塩』であることを信じる」

    作中の興味深い登場人物に、主人公の公爵ドン・ファブリーツィオと交代していく勢力の代表として描かれるセダーラという男がいる。
    自分の娘をタンクレディに嫁がせ、新興ブルジョワジーとしての地位を固めていく。
    品位も教養もなく、無精ひげで言葉はなまり、服装もダサイが、ずば抜けた計算高さをもつ。
    利殖の才能にたけ、財を築きながら、政治的に上昇していく。

    「人生という森の中を、木々をなぎ倒し、獣たちの巣を踏みつけながら、一直線に邁進するゾウのようだ」

    と、ドン・ファブリーツィオは彼を評する。
    そして、出会った当初に抱いていた軽蔑の思いが、だんだん感嘆の念へと変わっていくことに気づく。
    変革の波にもまれながら、のし上がり、あるいは退いていく人物模様。
    岩波版の翻訳者の小林惺は、この訳書の刊行直後に亡くなった。

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