• 池井戸潤 『下町ロケット』

    働くことの挫折と苦しみ、そして再起と喜びを描く
    本年最高の「泣かせるエンターテインメント」の誕生

    今年7月、第145回直木賞に選ばれたベストセラー小説。舞台となるのは、東京の下町にある小さな部品工場だ。
     そこで描かれるのは、働く技術者や職人たちの製品づくりにかける誇りと情熱、ライバルとなる巨大な財閥企業との対決、社内外のさまざまな人間関係の軋轢……。それらをを通じて浮かび上がるのは、まさに「働く」ということの悲しみと喜びだ。
     作者の池井戸は、慶応大卒で、元三菱銀行員。そんなエリートとしての経歴を持ちながら、32歳で組織を飛び出し、フリーライターとなった。やがて小説の世界へと移り、ついに大成する。
     フリーライター時代には『お金を借りる会社の心得』『図解 これだけ覚える融資の基礎知識』といった、ハウツーもののビジネス書を量産している。この銀行員時代とフリーライター時代につちった深い経験が、今回の受賞作における鋭い人間洞察や、圧倒的なリアリティーの満ちたビジネス現場の情景描写に、いかんなく発揮されている。
     登場するのはざっと50人。立場も世代もさまざまな人物たちをめぐっては、読者の間で、
    「どこで泣いたか」
    「どこが一番、感動的か?」
     という議論でも盛り上がる。本年最高の感動作との呼び声も高い、涙と喜びにあふれたエンターテイメント作品だ

     主人公の佃航平は、元研究者。宇宙工学の専門家として、かつてロケットの打ち上げプロジェクトの部門責任者として関わり、そして失敗した過去を持っている。失意と挫折のどん底の中で、学界を去った佃は、東京都大田区にある実家の小さな「佃製作所」を継いだ。
     そこで遭遇するのは、深刻な経営危機だ。突然の取引停止や、特許侵害をめぐる訴訟など、大企業に身勝手さに振り回される。会社は存亡の危機に立たされた。だが、そんな苦境の中でも、佃は「宇宙へ」という夢を捨てられないでいた。
     そうしたなか、折しも巨大な財閥企業である「帝国重工」が、政府から大型ロケットの製造開発を委託されながら、中枢である新型水素エンジンを開発で行き詰まっていた。百億円を投じたシステムでありながら、その中核技術であるエンジンのバルブシステムで、いつのまにか佃製作所に先を越されていたのだ。
     ここに、本作の第2主人公ともいうべき帝国重工の財前道生が登場する。宇宙開発グループの部長である財前は、佃製作所の経営が窮地に陥っていることを知り、交渉に出る。

    「特許を20億円で譲ってほしい」

     資金繰りが苦しい佃製作所からは、二つ返事でOKが来るものと財前は確信していた。ところが、佃の答えは「ノー」。ほとんどノーリスクでの取引であり、下町の工場にとっては最大級の栄誉である、
    「帝国重工の取引先」
     という称号さえ捨てて、佃が求めたのは、エンジンそのものの供給だった。
     愕然とする財前。いや、佃製作所の社員たちも同じだ。

    「そんなリスクを取らなくても巨額の特許料が入り、やっと経営も安定するのに」

     社員たちは反論する。ずっと出なかったボーナスがもらえると、苦しい家計のことを考える社員もいた。
     だが、佃は答える。カネの問題ではないのだ、と。

    「これはメーカーとしての夢とプライドの問題だ」

     ここに、佃たちの新たな困難と格闘が始まった。帝国重工の財前からすれば、ロケットの根幹部分であるエンジンを、いまにも潰れそうな下町の工場で製造させるなど、許せることではない。製品テストの名目で、妨害をかける。
     だが、そのなかで財前は、ものづくりに賭ける佃たちの情熱にふれながら、変化していく。やがて明かされる二人の因縁。さらに両者の対立には、彼らを取り囲むさまざまな人間たちも巻き込まれる。帝国重工にいる一人の技術者が、佃製作所のなみなみならない決意に心を揺り動かされ、ひそかな協力者へと転じる場面などは、とりわけ感動的だ。
     そして迎える最終章。果たして佃製作所のロケットは、打ち上がるのか……。
     作者の池井戸は、インタビューで語っている。

    「小説とは、最初に構想したたプロットに沿うように書いていく、というものではない。それでは、単に作者が都合よく登場人物を動かすだけになる。感動的な作品は生まれない」

     そうではない。真の作品とは、登場人物たちが勝手に動きだすのだという。自分でも気づかぬうちに、主人公たちが語りだし、走り出した作品。それが、この『下町ロケット』だ。
     直木賞は、日本の最高峰の文学賞として、芥川賞と同時に発表される。多いときは、それぞれ2作品ずつの計4人が受賞することもある。実際、前回がこの4人受賞だった。
     ところが、第145回では一転して、芥川賞が「該当作なし」で、直木賞も池井戸潤ただ一人だけ。いわば、一気に4倍の注目度を浴びながら、それがまったく負担とならないほどの、見事な秀作となっている。読後、きっと、
    「働くとはなにか」
     をめぐって、胸を締めつけられるに違いない。本物の感動作だ。

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