• 『奥様はCEO』――現役経営者がITベンチャーの裏側を描くライトノベル

     アマゾンで20件のレビューのうち18件で星5つを獲得している『奥様はCEO』(牧野出版)は、評判に違わぬ面白さだ。IT業界の裏側をビジネス・エンターテイメントとして描いた小説で、著者は大手人材会社インテリジェンスの創業者、鎌田和彦氏だ。

     舞台は都内のITベンチャー、クラウト・システムズ社。地方の無名大卒ながら同社の内定を勝ち取ったショーキチこと鴨志田正治は、内定式に向かう列車の中で隣に座った乗客にうっかり自分の身の上を漏らしてしまう。

     実はライバル社のイー・コネクションが第一志望だったこと、面接でアピールした英語力や新聞配達のバイトが嘘であること――。これを近くで聞いていたのが、同じ列車にたまたま乗り合わせたクラウド・システムズ社の創業者で若きCEOの水野聡美だった。

     怒りに震える聡美は、内定式の直後にショーキチを呼び出し、配属予定だった花形部署の営業から総務部付への変更を命じたのだった。

     クラウド社の総務は、朝は早く夜は遅い。仕事の内容も、社員の名刺作成からグリコの置き菓子の代金泥棒探し、社内のシステムダウンの復旧まで、ショーキチ的には「雑用」とも思える業務ばかりだった。

     このまま続けてどうなるのか、と意気消沈するショーキチだが、自分の仕事と向き合ううちに、営業部やシステム部などさまざま部署やメンバーの特徴、IT業界における自社と競合との関係など、だんだんと「会社のしくみ」が見えてきたのだった。

     仕事の話をなんでもサッカーに例えようとする上司の森田や、聡美の腹心で暇さえあればショーキチをド突く美人秘書の遥など、個性的な仲間に囲まれて成長するショーキチだが、本書は、単なるビジネスパーソンの成長物語で終わらない。

     ライバルのイーコネ社の躍進に焦りつつ「自前組織による成長」にこだわる聡美が、事業買収を部下から提案され苦悩する場面では、ベンチャー企業がM&Aを行う際のメリットとデメリットについて詳細な解説がなされる。

     ライバル企業の評判の低下を狙う者によるネット掲示板への経営者のスキャンダルの書き込みなどは、著者の実体験ではないかと思うほどリアルだ。

      辞めそうな社員を知らせる「退職危険通報者制度」が面白い

     成長期のベンチャー経営にまつわるトピックが盛りだくさんな本書の中でも興味深いのが、「退職危険通報者制度」の話だ。

     ITベンチャーの経営者として、日々の資金繰りに頭を悩ませ眠れぬ夜を過ごしている聡美。社員に還元したいのは山々だが、人件費を使い過ぎて一定の利益水準も達成できないとなると出資者も集まらない。

     しかし、社員はそうは思わない。「俺たちは安月給のままで、その分社長が利益を吸い上げているのでは」と疑心暗鬼になってしまう。ここで経営者が社員との意思疎通を誤れば、社員はあっという間に離れていく。大手のように資金が潤沢なら代わりを雇って済む話だが、ベンチャーの場合そうもいかない。

     クラウド社もライバルによる人材引き抜きに苦労するが、森田や遥の「社員の給料をもう少し上げてみては・・・」という提案を聡美は一蹴する。「社員は給料なんかが理由で辞めないはず」というのが聡美の言い分だ。  

     そこで森田らが考案したのが「退職危険者通報制度」。辞めそうな社員を人事に通報させるシステムだ。制度の開始後、聡美の元には部下達の退職危険情報が次々に寄せられる。

     しかも彼らの転職先はイーコネだ。聡美が特に信頼していた部下の佐和子は、退職理由を同僚にこう吐露している。

     「聡美さんは、私のこと一度も誉めてくれなかったんだよ。どんなに頑張ってもね。いくらどんなに頑張ってもね。だから、もういいやって思ったんだ」

     現役の経営者が書く小説と聞くと、モデルや筋立て、ビジネスの説明が優先されがちだ。しかし本書はそういったコンテンツもさることながら、エンターテイメント小説としての完成度も高い。ライトノベル風の文体が読み慣れない人もいるかもしれないが、特にベンチャー企業の経営者や従業員にはぜひ一読を勧めたい。

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