「ガリ勉」だけでは突破できないこともある エリート意識と粘り強さが招く「身の破滅」-東大卒の脳みそ(2) 2014年1月6日 仕事のエコノミクス ツイート 東大卒の30代サラリーマン、ふよっしーです。前回「東大生は『頭脳パンが大好き』な理由」で、東大合格者には「本当に頭がよくて試験をラクラク通過できた人」と、「毎日机の前に10時間以上座って受かっただけの単なるガリ勉」の2種類がいると書きました。 中に入ってみて分かったのは、私を含め、後者の人がかなり多いということです。そのため、東大生はバカみたいにしつこく粘る力があるのですが、その粘りはほとんど愚鈍に近いものがあります。 理由や目的を考えることは「試験の邪魔」 東大生の卒業後の進路といえば、文系であれば官僚や法曹界を目指す人がかなりいます。国家公務員試験や司法試験などの難関試験を受験する学生が、他の大学に比べて圧倒的に多いと思います。 難関試験を受ける動機は、将来の仕事に対する自分の適性うんぬんというよりも、「単に難しい試験だから受ける」という人の割合が高かったような気がします。そこに山があるから登る。目の前の高い目標にはとりあえず突進していくけれど、なぜそうするのか、その先の目的は何なのかを考えるのは苦手だったりします。 自分が学生の頃は、東大法学部を出れば「とにかく大蔵省」という雰囲気がまだ根強く残っていました。いま思えば、既存の価値観を何の疑問も抱かず受け入れ愚鈍に突っ走る、という東大生を象徴していました。 確かに官僚や法曹に求められる「前例主義」は、東大的な記憶力と事務処理能力の高さに合致しています。しかし東大生は正解のある試験を突破しただけですので、それによって価値判断のセンスが保証されているわけではありません。 一般企業や政治において求められる変化の時代のリーダーシップは、東大の入学や卒業に求められません。もちろん、東大生の中にはそういう資質を持った人もいますが、むしろ逆の資質によって試験を突破した人が多い印象が強いです。 また「粘り強さ」は、人生において大きな目標を達成するための重要な要素とされていますが、粘る方向を間違えれば大きな身の破滅を招きかねないと感じることもありました。 「成功体験」が道を踏み外す原因に 私の友人にも、大蔵省を目指す法学部の学生がいました。筆記試験は抜群であるものの、面接を通過して最終合格するのは決まって郵政省(いまは廃止)。もうそこでいいのでは、それが嫌なら別の道を模索したら、という私の問いに、彼の答えはこうでした。 「そんなことは、僕にもわからないよ」 とにかく走り出したら、自分の考えや判断で止まることができません。結局、彼は東大に在籍できる最後の年まで大蔵省を目指し続けましたが、うまくいかず、その後の行方は分かりません。司法試験を三十代半ばまで受け続けて、そのまま音信不通になってしまった法学部の友人もいました。 かくいう私も、東大に7年間いながら司法試験に合格できず、途方にくれて派遣社員から中小企業を転々としています。「失敗したところでやめてしまうから失敗になる」とは、松下幸之助翁の名言とされていますが、本当でしょうか。東大合格というおかしな成功体験は、その後の道を踏み外す原因になったりするのです。 私を含め、こういう人たちは必ずしも「頭がいい」わけではありません。むしろ先見性のある人が「こっちに行け!」と言ったら、それに従って「分かりました!」と石にかじりついて粘る役回りにした方がいいでしょう。 それは一般的な東大卒の姿ではないのですが…。そのときに邪魔になるのが「東大卒」というプライド。早めに打ちのめされて、こいつをどこかの段階でつぶしつつ、再び立ち上がらないかぎり、心のどこかで「自分は社会のリーダーとなるべき人物だ」と勘違いして、周囲からは「これだから東大卒は使えない」と言われて終わるのです。(ふよっしー) あわせてよみたい:大手通販会社、「マージャン大会」で採用選考
「ガリ勉」だけでは突破できないこともある エリート意識と粘り強さが招く「身の破滅」-東大卒の脳みそ(2)
東大卒の30代サラリーマン、ふよっしーです。前回「東大生は『頭脳パンが大好き』な理由」で、東大合格者には「本当に頭がよくて試験をラクラク通過できた人」と、「毎日机の前に10時間以上座って受かっただけの単なるガリ勉」の2種類がいると書きました。
中に入ってみて分かったのは、私を含め、後者の人がかなり多いということです。そのため、東大生はバカみたいにしつこく粘る力があるのですが、その粘りはほとんど愚鈍に近いものがあります。
理由や目的を考えることは「試験の邪魔」
東大生の卒業後の進路といえば、文系であれば官僚や法曹界を目指す人がかなりいます。国家公務員試験や司法試験などの難関試験を受験する学生が、他の大学に比べて圧倒的に多いと思います。
難関試験を受ける動機は、将来の仕事に対する自分の適性うんぬんというよりも、「単に難しい試験だから受ける」という人の割合が高かったような気がします。そこに山があるから登る。目の前の高い目標にはとりあえず突進していくけれど、なぜそうするのか、その先の目的は何なのかを考えるのは苦手だったりします。
自分が学生の頃は、東大法学部を出れば「とにかく大蔵省」という雰囲気がまだ根強く残っていました。いま思えば、既存の価値観を何の疑問も抱かず受け入れ愚鈍に突っ走る、という東大生を象徴していました。
確かに官僚や法曹に求められる「前例主義」は、東大的な記憶力と事務処理能力の高さに合致しています。しかし東大生は正解のある試験を突破しただけですので、それによって価値判断のセンスが保証されているわけではありません。
一般企業や政治において求められる変化の時代のリーダーシップは、東大の入学や卒業に求められません。もちろん、東大生の中にはそういう資質を持った人もいますが、むしろ逆の資質によって試験を突破した人が多い印象が強いです。
また「粘り強さ」は、人生において大きな目標を達成するための重要な要素とされていますが、粘る方向を間違えれば大きな身の破滅を招きかねないと感じることもありました。
「成功体験」が道を踏み外す原因に
私の友人にも、大蔵省を目指す法学部の学生がいました。筆記試験は抜群であるものの、面接を通過して最終合格するのは決まって郵政省(いまは廃止)。もうそこでいいのでは、それが嫌なら別の道を模索したら、という私の問いに、彼の答えはこうでした。
とにかく走り出したら、自分の考えや判断で止まることができません。結局、彼は東大に在籍できる最後の年まで大蔵省を目指し続けましたが、うまくいかず、その後の行方は分かりません。司法試験を三十代半ばまで受け続けて、そのまま音信不通になってしまった法学部の友人もいました。
かくいう私も、東大に7年間いながら司法試験に合格できず、途方にくれて派遣社員から中小企業を転々としています。「失敗したところでやめてしまうから失敗になる」とは、松下幸之助翁の名言とされていますが、本当でしょうか。東大合格というおかしな成功体験は、その後の道を踏み外す原因になったりするのです。
私を含め、こういう人たちは必ずしも「頭がいい」わけではありません。むしろ先見性のある人が「こっちに行け!」と言ったら、それに従って「分かりました!」と石にかじりついて粘る役回りにした方がいいでしょう。
それは一般的な東大卒の姿ではないのですが…。そのときに邪魔になるのが「東大卒」というプライド。早めに打ちのめされて、こいつをどこかの段階でつぶしつつ、再び立ち上がらないかぎり、心のどこかで「自分は社会のリーダーとなるべき人物だ」と勘違いして、周囲からは「これだから東大卒は使えない」と言われて終わるのです。(ふよっしー)
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