• バブル就活の驚異 「名前と電話番号さえ書ければ合格!」-バブル商社マンの咆哮(1)

    みなさん、はじめまして、頭刃男(ズバオ)と申します。

    今回から「商社」に勤める方、これから「商社」に就職を考えている方に、私の24年間の商社での経験と今思うことをお伝えして行きます。

    よろしくお願いします。

    訪問した途端に「内定!」

    まずは、自己紹介です。私は、1989年(平成元年)に、商社に就職しました。

    1989年とは今から24、25年前ですから、就職活動中の人は生まれていませんね(うぉーそうなのか!と自分の年を感じる次第)。

    歴史の教科書で見聞きしたでしょうが、世界では、6月に中国の天安門事件、11月にはベルリンの壁崩壊という歴史的転換期を迎えた年です。

    一方、日本ではいわゆる「バブル」。

    株式や不動産などの資産がやたら高騰し、金が宙を舞うが如く、浮かれ切った時代です。日経平均株価は3万8915円を記録。そして、就職活動は驚異の売り手市場(学生有利)。

    「会社訪問して、名前と連絡先の電話番号さえ間違わなければ、誰でも内定がもらえる」

    と思えるほどの勢いでした。

    私は数学科出身ですが、当時の就職先は証券会社のアナリスト70%、教師25%、その他5%。

    元々教師志望で大学に進学したのですが、「どこの馬の骨が育てたか分からないガキ共に一生を振り回されてなるものか」と、教育実習の時に思い立ち、企業就職を目指します。

    で、差し当たって、アナリストって何じゃ?という訳で証券会社を訪問。当時の証券会社は給料も良くて、それはもうキラキラ輝く業界です。

    そんなキラキラが、訪問した途端、内定を出すわけです。何人採用するのかと聞けば400人予定だが、人が集まればもっと採るという。

    でも、この簡単さに疑問を抱きました。当時は終身雇用が当たり前でしたから、こんなに簡単に自分の一生の仕事を決めていいものか?と。

    結局、証券会社の内定は丁重に返上申し上げました。ここで、数学科出身者が強みを活かせる「看板」を捨てたわけです。

    野望を実現できるのは「商社だ!」

    そして、自分が興味のある業界を回りました。百貨店、テレビ局、商社などなど、都合30数社。

    「数学科の君がこの会社に来て何をするんだ?」

    とよく聞かれました。「裸踊り」と一瞬頭に浮かんだ言葉を発することはありませんでしたが。

    回る内に気付いたのが、「あぁ、俺は海外の仕事がしたいんだ」ということ。そして、もう一つ。それは、

    「将来独立して社長になる」

    という大いなる野望。

    「この2つを実現出来るのはどこだ? うん、商社だ!」

    そう腹を決めてからは集中して商社を回りました。

    「業界トップの会社で学びたい」という考えから、大手志向で回り始めました。いわゆる大手総合商社に勤める、同じ大学出身の先輩を調べて面会のアポイントを入れていきます。

    でもその先輩たちに余り魅力を感じられなかったというか、しっくりこなかったというか、とにかく腑に落ちない感がありました。

    そこで先輩頼みを止めて、海外ビジネスの比率の高い商社を調べて訪問することにしました。

    面接を2、3回受けるだけ

    あ、当時の内定までのステップは面接2、3回受けるだけです。まずは同じ大学出身の先輩と会って、その先輩が「こいつは採るべき」と人事に報告してくれると別の社員を紹介してくれて、また会って、「良し」と言ってもらえれば次は役員面接です。

    試験はどの会社にもありませんでした(あーよかった。いい時代だったかもしれません)。

    総合、専門合わせて10社近く訪問して、最終的に専門商社2社に受かりました。 バブルの超売り手市場で、これほど決まらなかったのも珍しかったかもしれません。

    周りの友人たちは早々と決めて、羽を伸ばして青春してましたから。数学科出て営業希望、というのが当時でもウケが悪かったようですし、私も妥協せず&諦めず、でしたから。

    で、受かった2社、どちらを選択するかは悩みました。

    A社は半導体装置も製造している商社で、時の勢いは目を見張るばかりだったのですが、その製造工場は田舎で、本社は都内なのですが地味な土地。

    B社は、メーカー系で取扱い製品は多いものの突出した事業はなく、平均的に海外比率が高い。でも本社はサラリーマンの聖地新橋。

    結局、新橋。いや、海外比率の高い後者を選びました。

    なぜ「商社マン」と呼ばれるのか?

    1989年にこのメーカー系の商社に入社し21年勤務しました。この商社は、業界ではまぁまぁ名の知れた会社で、一部上場で従業員1万人超え規模の会社です。

    2010年にそのメーカー系商社時代の上司が興した商社に転職しました。この会社は日本の本社以外に、台湾、韓国、中国に海外支店があるのもの全社員は20人足らずという規模の会社でした。

    1万人→20人、ですから従業員レベルでは、0.2%になったわけです。この会社には3年勤務しました。

    この商社生活24年間で経験した業務をざっくり言うと、

    「海外営業、国内営業、商品開発、販社営業、商社営業」

    何だ何だ、色々書いてやがんな、とお思いでしょうが、まあ、24年も勤めれば、色々経験する、ということです。まぁ、「どんな営業してたの?」という話は、またいずれ。

    次回は、「商社マン復活!」と題して過去、現在、未来の商社を語ります。

    「商社マン」って、実は変わった呼び名だと思いませんか?「病院マン」とか「新聞マン」とか言いませんよね。図に乗って、読者の皆様に宿題っす。

    「なぜその昔、商社マンと呼ばれたのでしょうか?」

    (第2回に続く)

    頭刃男(ズバオ)

    東京理科大理工学部数学科卒。  一浪一留、自称院卒で1989年平成元年就職。  昨年までの25年で商社2社(24.5年),通販会社1社(0.5年)の3社経験。  時間的商社濃度98%。営業濃度100%。今年からまた商社に返咲き。 ブログ「朝の満員電車を明るくするんだプロジェクト」

    あわせてよみたい:2015年新卒「売り手市場」 それでも残る「不安要素」とは? 

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